日本庭園歴史

日本庭園のご案内

およそ120年ほど前の明治22年、この地方で炭鉱経営していました豊国炭鉱々主山本貴三郎氏(当時の貴族院議員)を施主として完成したものです。当時としても、第一人者の宮大工棟梁と庭師とを呼び寄せて造らせたであろうと想像されますが、残念なことに記録もなく、この作品のみが残ることなりました。
 作庭当初は、2000坪の屋敷に丁度1000坪の広さを持つ庭園でしたが、現在では700坪程の広がりをもつ庭園となりました。
 作庭技法としては、池泉廻遊式書院造りの形式です。松の植え込みが主体ですから、林泉廻遊式書院庭と呼称致しております。
 二、三本ずつの松を効果的に組み込んで造り上げておりますし、灯籠の配置と合わせて織りなす遠近の手法をもちいています。特に、東に位置する瀧の石組みや正面の真石の石組みは現有の日本庭園でも、あまり見られない珍しい手法です。
 そもそも、作庭記(平安期作庭秘書)に記されている作庭秘宝によりますと、池泉の遣水のとり入れ方は、東または北の方位よりとり、南に西にと流すものと記されております。
 この庭園も、まさしくその通りの手法で作られており、東より男瀧の陽水をとり入れ、渓流にて里水(陰)をとり入れて陰と陽が合流し、南に西に流しています。以前は紫川の支流である神嶽川へと放流致しておりました。
この庭園に呼応して建てられた離れ座敷(松月亭)の建物と庭園との調和が醸し出す情味は、平安、鎌倉、室町時代の武家文化の一端を偲ばせます。
現在は小倉も政令指定都市となり、ビル等が立ち並んでおりますが、元は小倉唯一の山、足立山が借景となっておりました。
また日露戦争の直後、大日本帝国陸軍の将官最上級であった乃木大将がこの地、12師団の検閲に来られた際に、当時建てられていました寝殿造りに数日間滞在した史実の話もございます。
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